それは絶望を知るために

 

 

忌名の王

 

 

「まだ餓鬼だな」

玉座の上で片方の膝だけで胡座をかいた、とても型破りな決して上品では無い姿で横柄にジェイドを見下ろす皇帝は意外なほどに若い。

張りのある褐色の肌にシニカルな笑みを浮かべて、物珍しい玩具でも見詰めるかのような瞳をしている。

まだ30をいくつか過ぎたばかりだという皇帝は、それでもその傑物ぶりを敵国にすら讃えられていた。

その此方を完全に侮った男を傷付けてやるくらいの力を自分はもっているだろうことを自覚している子共は、絶対の権威を信望する者達を、自身の器量を疑いもしない皇帝の面貌を驚愕に染めてやろうかと物騒な思惑に、大分心惹かれていた。

大人しく生地より連行されてきた子共は、不自由にはいい加減厭きが来ているうえに、己のこの先もイヤと言うほど想像がついていたから。

自身というものをほぼ完璧に把握していると思い込んでいるだけの子共。それでもその能力、頭の出来の希少性についての認識は正しい。

だから所詮、軍事利用されるのが落ちだろうという子供の予測もほぼ間違いは無い。

此処で皇帝に刃を向けた罪で処刑されるのもいいかもしれない。

そう、自虐的にジェイドは唇を歪めた。

実験は失敗し、失敗作である師の消去にも失敗し、今のジェイドはなんだかやる気をなくしてしまった。もうしばらくすれば、また研究への意欲がわくかもしれないが、少なくとも今のジェイドにはそんな気概がないのだ。

常から開いていた胸の穴の底がすとんとぬけて、なにもかもどうでもよくなってしまっていた。

意識が散漫で、周囲への観察を、警戒を疎かにしていたジェイドは、だから気付かなかった。皇帝がジェイドの疲れ切った笑みに目を止めたことに。

皇帝は此方など気にかけていないと完全に思い込んで、設けられた段の下に立つ若い男に何事かを話し掛けている至尊の存在へと狙いを定め、ジェイドは乾ききった咽喉を動かし口の中でか細く詠唱を初めた。

謁見の間に居る誰一人としてそれに気付かけなかった。

 

狙われた存在ただ一人を除いて。

 

空気のざわめき、集まる音素のうねりへ、皇帝は誰にも悟らせずに意識を傾け、その術式の造型の美さに感嘆を密かに浮かばせた。数多くの譜術士を、それらの生み出す力を見てきたピオニーですら、此処まで完成された数式を知らない。

男が黙して見守る中、発動させる鍵である最後の力ある言葉を、ジェイドが声高く放つ。瞬間に、それの意味するところを知覚した誰もが間に合わぬと硬直し、口々に主へと意味も無く叫んだ。

だが、誰もが描いたその光景は実現する事あたわず、皇帝は金の髪を靡かせ、力の収束するその場から一息に階下まで飛び降りると、一瞬にしてジェイドの鼻先にまで距離を詰めていた。

思わず目を見開いた子供に悪戯を成功させた悪童じみた輝きを瞳にはしらせた皇帝は、ジェイドの痩せた身体を猫の子にでもするかのように襟首をつかんでいとも容易く持ち上げて見せる。

 

「向こう見ずなやつは嫌いじゃないぜ?物のわからんガキが仕出かしたにしては、たいそうが過ぎるがな」

 

それは今しがたのことではなく、己の犯した禁忌をこそさして言われた言葉だとジェイドは認識した。自身の命を狙われた事に、男は大して感心が無いようだった。

その間近に見た皇帝の瞳は、空の青ではなく、水の青。

何もかもを見通す冷え冷えとした透徹さ、畏敬を覚える氾濫する自然の猛々しさ、軟らかに潤す慈雨の温かさ。その全てが渾然一体となって、彼の瞳には宿っていた。

目を奪われ、凝視するしか出来ないジェイドを皇帝もまた、目をそらす事無く真直ぐに見据える。

その赤に映しだされた己を見て、ピオニーの中へ畏れが走った。

赤の中の自身はまるで血にまみれているようで、預言された絶望を彼に連想させたのだ。

だが、目を離せない。

硬質な赤はなんと脆く無知で、無垢で、美しいのか。覗き込み、それを知ってしまった今、己が逃れられぬ事をピオニーはさとった。

それは予感であり、歓喜であり、甘やかな愉悦。

「陛下」

掛けられた声にようやく互いの呪縛から逃れ合った二人が声を掛けた男を揃って振り返った。

ほっと胸を撫で下ろしている忠実な家臣であり、また得がたい友でもある男の姿に唇の片端を吊り上げて見せた皇帝に、心臓が止まりましたと男が強張った顔で真剣に告げる。

「なんだ。俺があの程度でくたばるとでも思ったのか?アスラン」

「万が一、ということもあります。第一、戦場を退いて何年ですか」

皇太子時代、共に戦線に立った中である皇帝と将軍であったので、アスランは皇帝の実力を当然知っている。今は立場上、軽軽しく出陣するわけにも行かない上、世継も無いためそうそう轡を並べ、ということは出来ないが、培った信頼が揺るぐことはないが、しかしそれとは別問題だ。

「まだ17年、ってとこか?」

「十分です。乳飲み子ですら、立派に剣を取り戦場にて勲氏を立てることが出来ます」

「それは子無しの俺に対する厭味か?」

「いえ!そんなことは・・・!」

思わず動揺して口篭る生真面目な友を、皇帝はここぞとばかりに楽しげに虐めたおす。

「アスラン。お前自分が美人の嫁さん貰って可愛い娘に恵まれたからって陰険だぞ!!」

「ひ、姫君達を片端からすげなく追い返す陛下の自業自得でしょう!!」

「俺は理想が高いんだよ!!」

ジェイドを持ち上げたままの皇帝のからかいに、おろおろと反論を試みる将軍を助けるかのように、ずいと重臣の一人が割って入った。

「陛下、確かにお世継ぎの件は重要な事にございますが、今この場で論じるべき問題でもございませんでしょう。それはまた後ほどじっくりと。今はその子どもの行く末を決める事が先決かと。軍部の者はその才をみすみす捨てるような真似は惜しいと申しておりますが、あのような危険極まりない技術を生み出したことといい、陛下をしいし奉ろうとしたことといい、相応の処罰をすることが相応しいかと存じます」

軽口を叩き合う二人を不謹慎だと詰るように重々しく吟じる老臣に、予想通りだと冷えた頭でジェイドは自身の進退が決しようとするのを待っていた。

変わらず、ジェイドの心は空虚なままだ。

ほんの一瞬、あの青と交わった折に、熱い何かが駆け抜けたように思えたのだけれど。

「そうだな――」

吊るしたジェイドをちらりと流し見て、開いている片手で自分の顎を抓んでふむ、と暫し考え込んだ皇帝は、いい案でも浮かんだのであろうか。おもむろにその手を離して、傲然と言い放った。

 

 

冷徹な眼差しに射抜かれた。

何かを、誰かを恐ろしいと思ったのは、初めてだった。